氷河オンザロック《ソラノミダイアリー④ ホーボージュン》
今日も日本と世界のどこかで「空飲み」。アウトドアライターのホーボージュンが綴る、酒と放浪の日々。巨大氷河のかけらをウイスキーに浮かべて、悠久と呼ぶに相応しい一杯を飲む。
氷河の氷はガリガリ君みたいに青い。それは歳月が作りあげた色なのだ。
じつは僕はこれまで3度ほど氷河の氷でオンザロックを飲んだことがある。南米大陸の南に広がるパタゴニアの氷河で2回、アラスカの大西洋岸にある氷河で1回。ほかにも北極圏やヒマラヤなどあちこちの氷河地帯を旅したことがあるが、あいにくウイスキーを持っていなかったり、登山の真っ最中だったり、あるいは「それどころじゃない」状況だったりするから、そう簡単に飲めるもんじゃない。
初めて氷河オンザロックをしたのは35歳の時。南米大陸をマウンテンバイクで縦断している時だった。この年僕は赤道直下のエクアドルから、ペルー、ボリビア、チリ、アルゼンチンを抜け、大陸最南端のフエゴ島を目指していた。その途中、アンデス山脈南端のパタゴニア地方にある「ぺリト・モレノ氷河」に立ち寄った。Googleで「絶景・氷河」と打ち込むと一番最初に出てくるような有名な氷河だ。
氷河を初めて見たときに一番びっくりしたのは氷の色が青いことだった。生まれてこのかた氷といえば無色透明だとずっと思いこんでいたのだが、眼前に広がる氷壁はインクを溶かしたような水色をしていた。それはまるで巨大な「ガリガリ君」が何千本も聳え立っているみたいに僕には見えた。
この独特の水色は「グレイシャーブルー」と呼ばれている。氷河は長い年月をかけて圧縮された高密度な氷なので、氷中に含まれる空気の気泡が少なく透明度が非常に高い。その透明度の高い氷を太陽光が通過すると波長の短い青い光だけを反射させるため、人間の目には青く見えるのだという。いわば「歳月」が作りあげた奇跡の色なのだ。
このぺリト・モレノ氷河の奥には南パタゴニア氷原と呼ばれる広大な氷原地帯があり、その総面積はなんと1万3000平方キロメートルもある。これは長野県全域と同じぐらいの巨大な面積で、ここからは全部で48本の氷河が流れ出ている。その一本であるペリトモレノはその巨大さから多くの観光客を集める。なにしろ終端の幅は5キロ、湖面からの高さは60メートルもあるのだ。
夏場には日中陽が出て氷河が暖まると先端部分の結合が緩み、轟音を上げて崩れ落ちる。「大崩落」と呼ばれる瞬間だ。この時はパキパキパキ……という雷にも似た音が巨大な氷壁の中から聞こえたかと思うと、ドーン!というものすごい爆発音をあげて崩落する。断面の高さは20階建てのタワーマンションと同じぐらいあるから、崩落の迫力は凄まじい。崩れ落ちた湖面には巨大な波が立ち、近くにいる遊覧船が難破することもある。すでに20人以上がここで亡くなった。対岸の離れた場所から眺めても、それは怖ろしい光景だった。
どれどれ地球はどうしているかな? 長い眠りから覚めた氷河はそう言った。
湖畔には砕けて流れ着いた氷塊がいくつも打ち寄せられていた。僕はそのひとつに飛び乗るとバックのワンテン* を突き立て、ガシガシと氷を削った。あんなに青かった氷も削ると不思議なことに無色透明だ。青く見えるにはある程度の大きさが必要なのだろう。
こぶし大の氷塊をさらに砕き、ロッキーカップ* に放り込む。そしてマルキル* の水筒からロッキーカップにドバドバとウイスキーを注いだ。カップを振るとカランカランと硬い音がした。密度が高いせいか、それとも気温が低いせいか、なかなか溶けない。そのまましばらく揺すっていると氷塊はゆっくりとウイスキーの海に溶け出し、長い長い眠りから目覚めた。
シュワシュワシュワシュワ……。
カップの中からかすかな音が聞こえた。
シュワシュワシュワシュワ……。
長い年月氷の中に閉じ込められていた太古の空気が開放されたのだ。
「ふぁああああ、よく寝た……。どれどれ地球はどうしているのかな?」
そんな声が聞こえた気がした。指先でクルリと氷を回しながら僕は言う。
「世界はもう21世紀ですよ」
「21世紀?なんだそれは?」
「1世紀が100年で、それがもう21回繰り返されたんですよ」
「いつから?」
「……あ、すみません。」
僕は慌てて声の主に返事をする。何万年もかけてここまで流れ着いた氷河にとってイエス・キリストが生まれたのなどつい先日の話だ。いや、もしかしたら人類誕生の瞬間すら彼らにとっては最近のことなのかもしれない。
ここペリトモレノは「生きた氷河」と言われ、地球上に何百本とある氷河の中でも流れが最も速い部類に入る。それでもそのスピードは中央の速い場所で1日2m程度。周辺部は30cmほどと推測されている。僕らの一歩を一昼夜かけて動くのだ。南パタゴニア氷原の奥地に降り積もった雪が短い夏の陽を浴びて溶け、それが凍ってまた氷となり、膨張を続け、青い河となり、山を下ってここに辿り着くまで、いったいどのくらいの年月がかかったのだろう。
パリパリパリパリ……ドカーーーン!
遠くでまた崩落の音がした。それは大きな崩落で、あたり一面がビリビリ震えた。何千年、何万年の旅の果てに、氷が水へと戻る音だ。そんな地球の営みに比べたら、僕の一生なんて瞬きするほどの時間にすぎない。それを思うと目眩がする。それを思うと言葉を失う。
僕はその轟きをBGMに、頬に打ちつける冷たい風を肴に、氷河を浮かべたオンザロックを飲んだ。
何万年という歳月が、喉を通って胃袋に落ちた。
それは悠久と呼ぶに相応しい一杯だった。
* バックのワンテン:Buck Model 110 Folding Hunter アメリカの老舗ナイフメーカーBUCK社が1964年に発売したロックバック式フォールディングナイフ。
* ロッキーカップ:チタンやステンレスでできた1パイント(480ml)のキャンプ用カップ。そのまま火にかけられるので調理具としても食器としても使用できる。シェラカップより大きく使いやすいから長旅に愛用している。
* マルキル:1866年創業のドイツの老舗アルミ水筒ブランド。内部に「アルフェラン」という特殊コーティングが施されているため、ワインやウイスキーなどの酒類を入れても風味が変わらない。
※記事の情報は2018年2月15日時点のものです。
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