氷点下20度のモーニングコーヒー《ソラノミダイアリー⑤ ホーボージュン》
今日も日本と世界のどこかで「空飲み」。アウトドアライターのホーボージュンが綴る酒と放浪の日々。ミニバンを駆って雪山を渡り歩く旅、雪を溶かして淹れる朝のコーヒー。
朝起きると僕のブーツの中をカリブーの群れが歩いていた。
うっすらと目を開けると寝袋の息がかかるあたりが白く凍りついていた。眠気と寒気のあいだを彷徨いながら重たい頭をもたげると、寝袋に張り付いた薄氷がシャリシャリと音を立てながらマットに落ちるのが見えた。ゆうべは一晩中ブリザードが唸っていたが、どうやら車内も氷点下のずいぶん下まで下がっていたようだ。
「ううううう」
ひるむ気持ちを奮い立たせ、寝袋に入ったまま上半身を起こす。真っ白に凍ったウインドガラスに爪を立てガリガリと霜を剥がしそこから外を伺うと、雪原の上にはすでに朝の光が差し込んでいた。
「おはようラナ。もう起きてるか?」
足元の愛犬にそう声をかけるとボーダーコリーのラナがクンクンと鼻を鳴らしてすり寄ってきた。ちょっと待ってろよ、すぐ出してやるからな。僕はそういってウールタイツの上から登山用のビブを履き、枕にしていたダウンジャケットを羽織った。そして這いつくばってセカンドシートの下に手を入れ、ソレルのスノーブーツを探り当てる。予想通り僕の指先には冷たく凍った塊があった。
「ああ、最悪だ……」
このところずっと雪が降り続いていて、ブーツがまったく乾かない。昼のあいだに雪と汗をたっぷりと吸ったブーツは、夜になるとアラスカのツンドラ地帯のように凍りつき、僕の暮らしに陰気な影を落とした。
それにしても、起き抜けに凍ったブーツに足を入れるほどの不幸がこの世にあるだろうか……?僕は憂鬱な気持ちのまま、凍ったフエルトインナーをメリメリと押し広げた。まるで永久凍土みたいだ。きっと僕の寝ている間にカリブーの群れがここを渡ったに違いない。もしかしたらまだ何頭かがつま先のあたりに隠れているかもしれないぞ……。そんなことを考えながら、僕は足先を差し入れた。
「ひゃあ!」
足を入れたとたんつま先から脳天へと痺れるような冷気が駆け上がり、眠気が一気に吹き飛んだ。僕は飛び上がるように左足にもブーツを履くと、スライドドアを勢いよく開け放ち、外へと飛び出したのである。
キーン……。
もし空気に音があるとしたら、今朝のニセコはまさにそんな感じだ。氷点下の冷気が耳たぶを囓る。息をするたび冷気が鼻孔の奥に突き刺さり、涙が出そうだ。ぐるりとあたりを見渡せば、そこは一面のシルバーグレー。仰ぎ見る羊蹄山は分厚い雲の中で、真っ白いはずの新雪すらも灰色に見える。それは2月ど真ん中の北の国の光景だった。ハンマーで打ち付けるような重い光が、世界のすべてを覆っていた。
まずはしっかりお湯を沸かす。雪山生活の鉄則だ。
どこへ行くかは雪のコンディション次第。低気圧と雪雲の行方がそのまま旅の行方になる。最初は旅費と宿泊費を節約するために始めた車中泊だったが、時にマイナス20℃を下回る厳しい寒さとサバイバル生活に慣れるようになると、僕はこの自由気ままな旅のスタイルがすっかり気に入った。以前はバックパッカーハウスやドミトリーを利用していたが最近はほとんど宿には泊まらない。一番長いシーズンは49泊50日をこの小さなミニバンの中で暮らしたこともある。
「よくもまあそんな狭いところで」とあきれる人もいるが、1人用の山岳テントで暮らすことに比べれば豪邸だ。暴風雪に吹き飛ばされることもないし、雪の重みでフレームが折れることもない。着替えのために中で立ち上がることができるなんて、アウトドアーズマン的視点から見れば天国みたいなモノだ。
ただテント泊や雪洞泊に比べるとかなり冷え込む。なにしろ四方八方を鉄板に囲まれているので放射冷却がすごいのだ。また床下を風が通るので風の強い夜は底冷えがする。僕は冬でも車内にクーラーボックスを備えているが、これはビールを凍らせないためである。
「さあ、コーヒーでも淹れようか」
僕はジェットボイルに点火すると、寝袋の中に入れておいたナルゲンボトルからコッフェルに水を注いだ。ここではバナナから豚汁に至るまで、水分のあるものは何もかもが凍り付く。だから飲み水は寝る前にサーモスに入れるか、ナルゲンに入れて寝袋の足元に入れておかないと翌朝の調理に苦労することになる。
コッヘルの水がフツフツ沸騰し始めたら、降り積もったばかりの新雪をシェラカップですくい、少しずつそこに投入した。雪山の初心者はいきなり山盛りの雪を火にかけたがるものだが、それではぜんぜん雪が溶けず燃料を無駄に浪費してしまうことになる。まずは少量でいいからしっかりお湯をわかし、そこに雪を投入して水を作るというのが雪山の飲料水作りの鉄則なのだ。
沸騰したお湯で僕はドリップコーヒーを入れた。茅ヶ崎のロースターから買い付けているお気に入りのブレンドだ。しかしこれだけ寒いと落としているうちにどんどん冷えてしまうので、あらかじめ湯煎したサーモスにドリッパーをセットして直接落とす。サーモスは滑らないようにシリコンパッドを敷く。どちらも雪中生活の中で身に付けたティップスだ。細かいことだがアウトドアの暮らしというのはこういう小さなことで差が付く。
やがて太陽が山向こうから顔を出し、ナイフのように尖っていた空気のエッジをほんの少しだけ丸めてくれた。今日は風もなく穏やかな天気になりそうだ。ラナはキタキツネのようにシッポを膨らませて、雑木林のあちこちで匂いを嗅いで回っている。
僕は淹れ立てのコーヒーをサーモスからマグカップに注いだ。深めにローストしたモーニングブレンドが香ばしい湯気を上げている。少し迷ってラムをそこに垂らす。フワリとした甘い香りが鼻先をくすぐった。
おいラナ。今日はどこの山を滑りに行こうか?
それともスノーシューを履いて一緒に探検に行くか?
まっさらな1日、手つかずの1日を前に、僕はゆっくりとコーヒーを飲み、今日一日とこれからの旅の行方に思いを馳せた。
バサバサっと音を立てて、木の上の雪が落ちた。
こんなふうに迎える冬の朝が、僕は大好きだ。
- 1現在のページ