イタリア発祥ではないカクテル「ミモザ」が、イタリアで愛される理由とは?

イタリア留学経験もあり、イタリア語講師として多数の著作がある京藤好男さん。イタリアの食文化にも造詣が深い京藤さんが在住していたヴェネツィアをはじめイタリアの美味しいものや家飲み事情について綴る連載コラム。今回は可憐な花の名前がついたカクテルについてお話します。

ライター:京藤好男京藤好男
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イタリアの「女性デー」のシンボル「ミモザ」

イタリアに春を告げる花といえば「ミモザ」だ。小さな玉のような黄色が愛らしく、冬に耐えた人々の心を浮き立たせてくれる。そして、そのミモザが開花する季節、毎年3月8日をイタリアでは「女性の祝祭(Festa della donna)」としている。そしてこの日は、男性が女性にミモザの花束を贈るのが習わしとなっている。

ミモザを贈る相手は誰でもかまわない。恋人はもちろん、妻でも、祖母でも、姉妹でも、普段お世話になっている人でも。ミモザはその相手によって「愛の証」にも「感謝の印」にもなってくれる。

これは、1908年3月8日の米ニューヨークで、参政権を求める女性労働者たちによって行われた大規模デモが発端となり、やがて1975年には国連によって制定された「国際女性デー」と軌を一にする。だが、この日に「ミモザ」を贈るような国はイタリア以外にはない。その習慣が作られるには、ちょっとイタリアらしい歩みがある。その制定に深く関わったのが、テレーザ・マッテイという女性活動家だ。実は彼女は、第二次大戦中にナチスやファシストと戦ったパルチザンの「伝令員(La staffetta)」でもあった。

テレーザは晩年の取材でこう証言している。「あの頃、ミモザはパルチザン兵から女性伝令員への一つの贈り物のでした。私は山中での激しい戦闘をよく思い出しますが、そこではミモザが束になって摘めましたし、それにタダでしたからね」

戦後、テレーザは女性の人権を守る活動家として献身する。そしてこの「女性の祝祭」制定に当たり、花を贈る活動を始めようとしたとき、どの花を贈るべきかが議論となった。ミモザのほかに、アネモネやカーネーションなども候補にあげられたが、春にイタリア中で開花するものであり、どのような身分でも、どのように貧しくても、誰にでも手に入る花だという彼女の意見が受け入れられた。女性の立場を主張するだけでなく、身分や格差を超えた「愛」を表現しようとするところに、私はイタリアらしさを感じてうれしくなる。

プロセッコで作るのがイタリア流!

さて、のっけから、やや家飲みの話とずれたが、「ミモザ」という名のカクテルもイタリアでは人気だ。スパークリング・ワインがベースのカクテルだが、イタリアではヴェネト地方の辛口白発泡「プロセッコ」を使うのが定番。そこにオレンジ・ジュースを同量加えるだけ。作り方は簡単だ。食事前、あるいはパーティー開幕前のアペリティフとして、あまりワインが得意でない女性にもやさしいと受けている。また、このオレンジ・ジュースを、シチリア産の赤いオレンジを使ったブラッド・オレンジ・ジュースに変えれば「シチリアン・ミモザ」と呼ばれる。こちらも女性に大人気。

この「ミモザ」だが、発祥はイタリアではない。通説によれば1921年、ロンドンにあった「バックス・クラブ(The Buck’s Club)」という社交クラブの、パット・マクギャリーというバーテンダーがアレンジしたという。当時そのカクテルは「バックス・フィズ」と呼ばれ、シャンパンをオレンジ・ジュースで割って飲まれていた。その後、1925年にはパリのホテル「リッツ」で、同じくシャンパンのオレンジ・ジュース割りカクテルが振舞われ、「シャンパン・ア・ロランジュ」と呼ばれて人気を博したという。

だがそれ以降の歴史は、実は謎だ。なぜそれが「ミモザ」と呼ばれるに至ったか。文献的な証拠は残っておらず、ただ俗説が流れるのみだ。その1つには、映画監督のヒッチコックが1940年代にサン・フランシスコで発明した、というものまである。

だが、そうした歴史の空白が、私の興味を一層そそる。いつしかそれがイタリアに伝わり、シャンパンではなくプロセッコに取って代わり、いわばイタリア流のアレンジで「ミモザ」となって生まれ変わった、と想像するのだ。その鮮やかな黄色が、イタリア人には即座に「ミモザ」と結びつき、やがて全土で受け入られたと考えても不思議はない。その下地は、すでにテレーザ・マッティによって作られていたのだから。女性デーがミモザの花と結びついたのが1946年3月8日。あれから71年。今もイタリアで人気のカクテルと言えば「ミモザ」が筆頭である。


※記事の情報は2017年4月27日時点のものです。
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