江戸時代にタイムスリップしたくなる⁉ 『晩酌の誕生』著者に聞く、家飲みの歴史トリビア!

万葉集にも詠まれ、江戸時代に花開いた日本の「家飲み」の歴史を膨大な資料を元にした考察で明らかにした一冊『晩酌の誕生』。著者である食文化史研究家の飯野亮一さんへのインタビューでは、現代以上に便利で充実している面もあった江戸の家飲み事情を中心に、本書の中で紹介されている様々な「家飲み」に関するトリビアについて、詳しく伺いました!

ライター:丸本大輔丸本大輔
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お話してくれたのはこの方

飯野亮一(いいのりょういち)さん

食文化史研究家。服部栄養専門学校理事・講師。早稲田大学第二文学部英文学専攻卒業。明治大学文学部史学地理学科卒業。2014年に初めての単著、『居酒屋の誕生』を発表。その他の著書に、『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ』『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』(いずれも、ちくま学芸文庫)などがある。

飯野亮一(いいのりょういち)さん

先行するものがなかった“家飲みの歴史”の本

「晩酌の誕生」
コロナ禍をきっかけに、改めて注目が集まった家飲み。食文化史研究家の飯野亮一さんが2023年11月に発表した最新作『晩酌の誕生』の記述(P.29)によると、「はじめは神事(祭祀)の際に飲んでいた酒が、奈良時代になると、酒宴の場で盛んに飲まれるように」なっていったそうです。同時に、一人で飲むのが好きな人による「独酌」、つまり「家飲み」も始まっていました。

『晩酌の誕生』には、万葉の昔に始まった「家飲み」の遍歴や、江戸っ子の家飲み事情など、日本の「イエノミスタイル」の歴史が綴られています。



『晩酌の誕生』
著者:飯野 亮一
出版社:筑摩書房


―最初に、『晩酌の誕生』というテーマの本を執筆しようと思った理由を教えてください。やはり、コロナ禍で「家飲み」が注目されたこともきっかけになったのでしょうか?

このテーマは、担当編集の藤岡(泰介)さんのご提案です。私は、服部栄養専門学校で栄養士や調理師を目指す学生たちに食べ物の歴史を教えてきたのですが、その延長線上で雑誌や本に食べ物の歴史についての文章も書いていました。

そして、初めて出した文庫が『居酒屋の誕生』なのですが、その本も、後に書いた2冊(『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ』『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』)も藤岡さんが担当してくださっていて。3冊目の本を出した後、次の本はどうしようという話をしたときに、「晩酌の歴史」というテーマをご提案いただいて、「それは良いですね」ということになりました。私も藤岡さんもお酒が大好きですから(笑)。

そういった話をしたのは、コロナ前のことでしたから、「家飲み」に注目が集まったのは偶然です。本の中にも書いていますが、江戸時代は「家飲み」ではなく「内呑み」と呼んでいたので、私としてはこの言葉も広まって欲しいと思っているんですけどね(笑)。

―最初から「このテーマなら面白い本が書ける」と思ったのですか?

大変面白いテーマだとは思いましたが、晩酌の歴史に関する本なんて先行するものもないですし、最初は暗中模索の状態でした。どういう風に話を展開していくかということでも、かなり試行錯誤しましたね。

私は、自己満足で本を書かないことをモットーにしていて。読んでもらう人の側に立って、「これは面白いのか?」ということを常に自分に問いかけながら文章を書いているんです。その結果、随分回り道もしました。例えば、江戸時代の木戸が閉まる問題についてもそうです。

―「第六章 江戸庶民の夜間の暮らし」の中で、江戸の夜は暗く、木戸(木製の門)で通行も制限されていたこと。そして、そのことが庶民の生活に与えた影響なども詳しく書かれています。

晩酌に関する話を読みたくてこの本を手に取ってくださった方には、木戸の話なんて余計な話かもしれないし、それをどれだけの人が興味を持って読んでくれるのかは、すごく考えました。

しかし、木戸に関して書かれた書物には内容的に正しくない物も本当に多いので、このことはきちんと書いておく必要があると思ったんです。現代とは違って、自由にいつまでも外でぶらぶら遊べる時代ではなく、基本的に夜は家にいることが多い時代だったことは、晩酌の歴史にとって非常に大事な要素だと考えているので。

家飲みの歴史トリビア①|兼好法師は元祖家飲み愛好家だった!

京都郊外で隠遁生活をおくる兼好法師。『頭書徒然草絵抄』(元禄3年)-『晩酌の誕生』(P.43)より引用
京都郊外で隠遁生活をおくる兼好法師。『頭書徒然草絵抄』(元禄3年)-『晩酌の誕生』(P.43)より引用
―本書には、江戸時代をはじめとする過去の時代を生きた人たちの食生活などが事細かに描かれていて。飯野さんは、タイムトラベルをして、実際にこの時代の生活を見て来たのかなと思うくらいでした(笑)。

ありがとうございます。そう言っていただけると、3年半もかけて書いた甲斐がありました。

―しかも、本書で初めて知って、周りの人にも話したくなるようなトリビアが盛りだくさんです。第一章と第二章では、江戸時代以前の「家飲み」について書かれていますが、『徒然草』の著者として知られる鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての人物、兼好法師も家飲み愛好家だったそうですね。

はい。ただ、兼好さんは、本人が生きていた時代にはあまり注目されていなくて。室町時代の中頃になって初めて、「『徒然草』という作品が素晴らしい」と話題になり、特に江戸時代になってから多くの人に読まれ、兼好さんの存在も知られていったんです。

だから、兼好さんについては同時代の記録が少なくてはっきりしないことも多いのですが、専門家の方々の研究によってある程度のことは分かってきました。

兼好さんは、出家する前、宮廷に出仕して従五位下左兵衛佐(じゅうごいのげさひょうえのすけ)という位になっているんです。

―従五位下左兵衛佐とは、かなり高い位なのですか?

当時の貴族社会では、ある程度は高い方。上流貴族とは言えないけど、中流貴族ぐらいではあると思います。そこまで昇進しているのに出家してしまう。

その理由は分からないのですが、鎌倉時代の末期になると政情に不安な面もあり、武士同士の内乱みたいなことは起こっていて。鎌倉幕府と朝廷との複雑な関係もありますし、貴族だからといって、のほほんと生きていけるような時代ではなかったはず。そういう時代の中で、出家と隠棲という道を選んだのかなと思っています。

―何かの挫折があったのかもしれませんね。そういう苦しい心を「家飲み」で癒していたのかも?

『徒然草』の中でも「下戸ならぬこそ、男はよけれ」と言っていますし、お酒は好きだったようです。それに、宴会のような騒々しい席は嫌っていますが、打ち解けた友達同士が差し向かいに飲むことは心が安らいで楽しいとも言っています。

お酒を無理強いされるとか、周りの人に気を使うといった宴席のデメリットは、鎌倉時代も今も変わらないんですよね。逆に家飲みのメリットは、自分のペースで飲めて、酒の味もじっくり味わえること。兼好さんもお酒そのものが好きだから、家飲みを好んだのでしょうね。それは、社会的な環境など以上に、個人的な性格が理由だったと思います。兼好さんは30歳頃に出家隠棲し、70歳ほどで亡くなっていますので、かなり長い間家飲みを楽しんでいたのではないでしょうか。

―鎌倉時代に生きた人と、お酒の飲み方で共感できることが面白いです。

そうそう、同じなんですよ。鎌倉時代も現代も、外で賑やかに飲むのが好きな人もいれば、家で静かに飲むのが好き人もいる。それは個人の嗜好ですから。

家飲みの歴史トリビア②|江戸の町では好きな時に好きな量の酒を買えた!

江戸の町
―家飲みの文化が花開き、夜に自宅で酒と肴を楽しむ「晩酌」が盛んになったのは、江戸中期とのことだそうですが、その理由を教えてください。

まず一つは、菜種や綿などを材料にした油の生産方法が確立して、明かり(灯火)が庶民の間にも普及したことです。それ以前の一般的な庶民は、暗くなったら寝ていましたが、夜も生活の一部に取り込んで楽しめる時代になりました。

あとは、庶民の生活レベルが向上したこと。特にお米の増産が進んだことです。米の生産に力をいれたことで『米将軍』とも言われた八代将軍徳川吉宗の時代には、農地開発が進み、生産力も向上したことで、生活が安定しました。米の供給量が増えすぎて、米の価値が下がってしまったとき、吉宗は米価対策もしています。

―米の価格が下がると幕府は困るのですか?

当時の武士の収入源は年貢で、お米が何百石などと決まっているから、米の価格が下がると収入が下がるんです。その米価をコントロールする時に重要な役割を果たしていたのが酒造り。豊作のときには、酒造りを奨励して、逆に凶作のときには、酒造りを制限したりしていました。

―要は、食べるために流通する米の量と価格を酒造りでコントロールしていたのですね。

はい。少し話がそれてしまいましたが、それだけ米の需給が重要な役割を果たしていたということです。加えて、江戸時代はすごく平和でした。江戸初期には「島原の乱」のような内乱もありましたが、その後は200年以上も戦争をやっていない。それは、世界的に見ても珍しいことです。

生活レベルが上がって、ある程度の食糧自給ができて、戦争もない。そうすると、庶民でも晩酌を楽しむ余裕ができてくるということですね。もちろん、その日暮らしの人もいたわけですが。

―江戸では、好きなときに飲みたい量のお酒が買えたそうですね。想像以上に家飲み愛好家に優しい町と知って驚きました。

当時の俳人が「味噌や塩は小売されていて、酢と醤油は1銭分ずつでも買えて、酒は朝から夜遅くまで売られています」という趣旨の文を書き記しています。それに、酒屋が四つ前(夜の10時頃)に寝ると、客から叱られたという逸話もあります。あと、江戸時代は、庶民でもみんな樽酒が飲めたんですよ。

―酒屋で樽酒が売られていたのですか?

はい。でも、樽ごと買える人なんてそんなにいないですから、普通は量り売りをしていて、その日に飲む分だけ買うこともできたんです。

―そうすると、「今日は、稼ぎが良かったから、たくさん飲もう」という人もいたわけですね。

お金にあまり余裕がない、その日暮らしの人は、逆に飲み過ぎないので良かったかもしれませんね(笑)。あと、容器のない客に対しては、貸し徳利もありました。

家飲みの歴史トリビア③|江戸っ子は真夏でも燗酒を飲んでいた!

日本酒
―江戸で飲まれていたお酒は、現代の日本酒にあたるお酒だったのですか?

それについては、前著『居酒屋の誕生』に詳しく書いてあるのですが、江戸で飲まれていた酒の多くは「諸白(もろはく)」という下り酒でした。

―諸白の下り酒とは、どういうお酒ですか?

下り酒は、上方(畿内地方)から運ばれてきた酒のことで、諸白は現代の清酒とほとんど同じものです。上方から船に積まれて10日間くらい波に揺られながら運ばれてきたお酒は、熟成して美味しくなると言われていました。

あとは、濁り酒、現代のどぶろくもかなりの量が出回っていて、これはもっと安く買うことができました。

―ビールと発泡酒ではないですが、懐具合によって選べたわけですね。

濁り酒を静置しておくと、上の澄んだところと下に沈んだ澱に分かれるのですが、その中間を汲み取ったものは「中汲(なかくみ)」と呼ばれていて、濁り酒よりも少し美味しくて、少し高い。大きく分けて、その3種類があったようです。もちろん、それぞれの種類の中にも値段の高い安いはあったでしょうね。

要は、お酒を飲む際、予算に応じた選択肢があったということです。これも、江戸の人とお酒との関わりが非常に深かったからだと思います。

―当時は、一年中温かい燗酒を飲んでいたということにも驚きました。

「酒は、百薬の長」という言葉が盛んに言われていて、適量のお酒を飲むことは健康のために良いとされていました。でも、冷や酒を飲むことは、健康に良くないとも言われていたんです。

それに、当時のお酒は、製法上の理由で今よりも超辛口だったと考えられていて。お酒は、加熱すると甘味が増すので、超辛口のお酒を美味しく飲むためにも、年中燗酒を飲んでいたのだと思います。

年中、温かいお酒を飲むという文化は珍しくて、ポルトガルからやってきた宣教師が驚いたという話も残っています。ヨーロッパでも、寒いときにホットワインを飲んだりすることはありますが、暑い夏でも温めた酒を飲んでいることにカルチャーショックを受けたのでしょうね。

家飲みの歴史トリビア④|江戸っ子は家にいながらデパ地下並みの酒の肴を味わえた!

芋の煮っころばし
―本書では、江戸時代の酒の肴、おつまみも数多く紹介されていますが、現代でもお馴染みの料理が数多くあったことに驚きました。「芋の煮ころばし」は、「芋酒屋」という専門店があるくらい大人気だったとも書かれています。

そうですね。芋の煮ころばしは、里芋の煮っころがしのことで、酒の肴として人気だったようです。江戸時代に「芋」と言えば里芋のことで、ジャガイモは江戸の終わり頃には少し出回っていましたがあまり一般的ではありませんでした。

サツマイモは、江戸中期ぐらいから少しずつ出回っていましたが、やっぱり、当時の「芋」といえば里芋です。それに、「鳥」と言えば雉で、「豆」と言えば大豆でした。

―本書の中で紹介されている江戸の「惣菜番付」を見ても、「きんぴらごぼう」「ほうれん草おひたし」「こんにゃくおでん」「てんふら(天ぷら)」など、今でもおつまみとして人気の料理が並んでいますね。

『居酒屋の誕生』では、江戸の居酒屋の人気メニューも紹介しているのですが、芋の煮ころばしの他、「ふぐ汁」「鮟鱇汁」「ねぎま(葱鮪)」「まぐろの刺身」「湯豆腐」「から汁」なども人気だったようです。

―どれも美味しそうで、現代のお酒にも合いそうです(笑)。しかも、江戸には、そういった多種多彩な料理を担いだりして売り歩く「振り売り」がたくさんいて、「まさにスーパーやデパ地下の食品売り場が移動してきているよう」だったことも紹介されています。焼き芋の移動販売車のように道路で売り歩いていたのでしょうか?

長屋の奥の方まで売りに来るんですよ。しかも、朝から夜まで一日中、いろいろな振り売りが時間差で来るんです。

―ある意味、現代よりも便利ですね。

そうですね。まさに、移動コンビニでした。

―そんなに便利だと、家で料理を作る人はいたのでしょうか?

もちろん、作っている人はいます。所帯持ちの家庭とかは奥さんが作っていたでしょうね。やっぱり、助かるのは独り者ですよ。江戸は女性が少なかったから、結婚できない男性も多かったんです。そういう人は、振り売りから買うこともできるし、仕事帰りに屋台でテイクアウトもできました。

少し人通りの多いところには、さまざまな料理や酒を売る屋台がたくさんあって。煮物や天ぷらの屋台などもあったんです。天ぷらの屋台なんて本当にありがたいですよね。揚げたてを買えますから。

―私は、スーパーで買った天ぷらをレンジでチンして食べることも多いので、羨ましいです。

手ぶらで行っても、持ち帰り用の竹の皮に包んでくれるし、丼に入った大根おろしまで置いてあって、それも盛って持ち帰れるんです。天つゆに浸けて持って帰ることもできますが、べちゃべちゃになるのが嫌なら、自宅に帰ってから醤油を付ければ良い肴になります。江戸中期になると醤油はかなり普及しているので、たいていの家には常備されていました。

家飲みの歴史トリビア⑤|江戸時代にも小鍋ブームがあった!

長屋の夫婦が小鍋立で仲睦まじく晩酌。『串戯しつこなし』後編(文化3年)-『晩酌の誕生』(P.160)より引用
長屋の夫婦が小鍋立で仲睦まじく晩酌。『串戯しつこなし』後編(文化3年)-『晩酌の誕生』(P.160)より引用
―コロナ禍の2020年から2021年頃、感染対策として個食が奨励されて“小鍋ブーム”が起こりましたが、江戸時代にも小鍋ブームがあったそうですね。

身分制社会だった江戸時代は、食事のときも一人用の膳が用意されていて、身分の上下によって座る位置が決められていたんです。それは家族の中でも変わらなくて、一人一人の座る位置が定められていました。

そういう時代の中、仲睦まじく一つの鍋をつつき合って食べる小鍋立(小鍋料理)が流行ったんです。おそらく、最初は遊郭の遊女とお客の間で始まり、それが夫婦や友人同士にも広まっていったのだと私は考えています。

―江戸時代には、二人以上で一つの鍋をつつく料理として流行した小鍋料理が、コロナ禍では個食のための料理として流行したという真反対な事態が起きているのも面白いです。

それは社会の前提として、一緒に食事をするのが当たり前の現代と、別々の膳で食べていた江戸時代の違いです。でも、確かにその視点は面白いですね。それもこの本に書けば良かった(笑)。

―江戸時代の小鍋立では、どのような鍋が人気だったのですか。

定番だったのは、がん(雁)鍋や軍鶏鍋、それから、かしわ鍋です。かしわ鍋は鶏の肉ですね。あと、獣肉の鍋を食べられる店もあって、主にぼたん鍋と紅葉鍋などがありました。ぼたんは猪の肉で、紅葉は鹿の肉です。

家飲みも、外飲みも。自由気ままに酒が楽しめた江戸の町

『居酒屋の誕生』と『晩酌の誕生』
―ここまで、家飲みの話を中心に伺ってきたのですが、江戸時代は居酒屋も繁盛していて、深夜営業をしている店もあったそうですね。

はい。居酒屋の話は、『晩酌の誕生』の中だけではなく、『居酒屋の誕生』にも詳しく書いていますが、茶屋が分化していき、客室で夜間に灯火を灯して飲食を提供する料理茶屋という商売が繁盛しました。

料理茶屋は現在で言う料亭で、庶民には敷居が高かったのですが、庶民も気軽にお酒を飲める店として居酒屋が現れて繁盛したんです。仰るとおり、夜通し営業する「夜明かし」という店もありました。

―しかし、江戸はテイクアウトやデリバリーなど家飲みに便利な商売が充実しているので、居酒屋で飲む人は少なそうな気もします。

そんなことはなかったと思いますよ(笑)。今と同じで、外飲みの賑やかな雰囲気が好きな人はいたでしょうし、居酒屋で一人飲みする人もいました。個人の嗜好によって、好きな形でお酒や肴を楽しめた時代だったということだと思います。
―本当に、現代と変わらないですね。最後に、江戸っ子と同じく家飲みを愛する「イエノミスタイル」読者の皆さんに向けて、メッセージをいただけないでしょうか。

やっぱり、皆さんには自分のためのお酒を楽しんで欲しいですね。お酒って、外でみんなとワイワイ飲むことが良しとされて、家飲みが好きと言うと、「寂しい」とか「友達がいなそう」とか、少しネガティブな捉えら方をされることもあったと思うんです。

でも、江戸時代の人が楽しんでいたように、家飲みも外飲みも、どちらも楽しいものですから。こういう本もヒントにしていただいて、自分のお酒の楽しみ方を見つけていただきたいですね。私もコロナ禍の中で、この本を書き上げることができたのは、毎日晩酌を楽しんで、明日の活力を得ていたおかげですから(笑)。

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※記事の情報は2024年2月12日時点のものです。
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