創業680年の伝統「八丁味噌」のふるさとを訪ねてみた。
ふとしたことから興味がわいた、愛知県の名産「八丁味噌」。知っているようで実はほとんど知らなかった味噌の世界を取材したら、驚くことの連続でした。
味噌についての誤解。大豆だけで作る味噌は実は少数派だった。
「え? 別に甘くないですけど」
と、なんだか怪訝そうな顔に。だって味噌カツにかかってる味噌とかすごく甘いじゃん。
「いや、あれは味噌に砂糖を混ぜてるだけです。名古屋というか愛知の味噌自体はかなり塩辛いですよ」
なんだか失笑されてしまいました。じゃあ家にある普通の味噌はどんな味噌なの?
「普通に家にある味噌は赤味噌です。固くて味が濃くて、少し苦くて塩辛い。みそ汁はそれで作ります。豆味噌ともいいますね。岡崎のほうで作っている八丁味噌もそのひとつだと思います」
八丁味噌! 聞いたことがあります。赤味噌、豆味噌、八丁味噌。愛知県の味噌は、関東の家庭でよく使われる信州味噌とどう違うのでしょうか。そもそも、味噌のことを知ってるつもりでも実はほとんどわかってないなあと思って、ネットでちょっと調べてみました。
知っているようで知らなかったのは、味噌というものの原料でした。味噌は大豆からできるんでしょ? と漠然と思っていましたが、本当のところ味噌は、たいてい大豆と米を混ぜて作るとのこと。米が入るにしても少しなんだよね? と思ったけどさにあらず。大豆と米の割合は信州味噌ならおよそ1対1.2とむしろ米のほうが多め。京都の西京味噌になると1:2〜3とかなり米が優勢です。米が多くなるほど、味噌は甘さが増します。
日本の味噌のなかで異彩を放っているのが、中京地区の味噌でした。中京地区の豆味噌または赤味噌(この二つは同じものを指す)と言われる味噌は、大豆と米の割合は1:0。大豆と水と塩だけが原料です。純粋にメイド・フロム・大豆な豆味噌は、日本の味噌のなかでも孤高の存在らしいのです。
長い長い歴史のなかで同じ町だけで作ってきた「八丁味噌」。
【八丁味噌】豆味噌のうち、現在の愛知県岡崎市八帖町にて生産されてきたものを指す。(Wikipedia)
なんと。ずっとひとつの町名のところだけで作ってきた味噌だというのです。神秘的な響きですね。八帖町ってどこだろうと地図を見てみました。
愛知県の・・・
岡崎市がここで
6トンの味噌に3トンの石を載せて2年間発酵・熟成。
加藤 豆味噌は、大豆と塩から作られ、主に東海地方で製造されています。麹も豆で作る豆麹を使います。米を加える日本の他の地域の味噌に比べ、甘味がなく、旨味が豊富なのが特徴です。八丁味噌も豆味噌の一種ですが、木桶に入れた味噌の上にピラミッド状に石を積み上げて2年間以上熟成させます。長期間熟成させることで、塩角がとれ、旨味の豊富なお味噌となります。旧東海道を挟んだお向かいのカクキューさんと弊社の二社で作る八丁味噌協同組合では、その製法を守ることを約束しています。
加藤 大豆を水洗いして、水につけて水分を含ませたあと、釜で蒸します。アメ色になった大豆を冷まして、丸めてこぶし大の味噌玉を作ります。このとき蔵に住み着く乳酸菌が作用して、あとあと味噌になったときにほどよい酸味となります。この味噌玉に麹菌をまぶして四日間経つと、びっしりと麹菌が生えます。それが大豆麹です。その大豆麹を、木桶に塩水と一緒に仕込みます。
—— そして桶のなかで2年。長いですね。
加藤 一般的な米みそや豆みそと比べるとずいぶん長いですよ。私は営業部なので商品がないとお客さんに怒られますが、現場に早く味噌を出してくれと仮に言ったとしても、絶対に出してくれません(笑)。
加藤 それぞれの桶に入っている味噌が6トン。石は3トンあります。これは矢作川の石なんです。
—— 3トンといえば大型のSUV車よりも重い。どうやって積むんですか。
加藤 大桶に大豆麹を入れて職人が均一に踏み固めた上に、石積み職人という専門の職人が手で積むんです。3トンの重しをしても、味噌は夏は盛り上がって冬は下がります。きちんとバランスよく石を積まないと崩れてしまうんです。職人は石の顔を出す、といいます。職人にしかわかりませんが、石には顔があるらしいです。きちんと積めば、円錐状になり重さがバランス良くかかる。地震があっても崩れてきません。
—— ただ石を積んでいるだけで崩れない。よく考えるととても不思議です。ひとつの桶に積み終わるのに何日かかるんですか。
加藤 3〜4時間です。職人はみな何年も厳しい親方のもとで修行します。弊社だけで、年間だいたい100個ぐらいの桶に仕込みますから、その回数だけ石積みをやります。
—— 下からは見えませんが、桶の蓋の上に石が乗っているのでしょうか。
加藤 いいえ、味噌の上に麻の布を敷いて、その上に石を載せています。
—— それで、なぜ石が沈んでいかないんですか。
加藤 水分が少ないので石は沈みません。重みで水が少し出るくらいです。ちなみに水分が出てきてもそのままにしておきます。
—— たとえば万力みたいなもので上から圧縮するとか、それでなくても大きな重りをひとつドンと置けばいいのでは…
加藤 できるかも知れませんが…これが昔からのやり方なのです。味噌が上がったり下がったりするのを、石と石の隙間がうまく吸収してくれています。
加藤 これは杉桶で、古いもので150年前のもの。だいたい100年くらい使っています。注文を受けてから作り始めるんですが、木を乾燥させるのに2〜3年かかるので、だいぶ前に注文しておく必要があります。はめられている「たが」は、桶が新品のときは竹です。すごく長い竹を切らずに使うので、竹やぶで輪の状態にしてから運ぶんですよ。桶の木は100年持ちますが、竹は30年ぐらいが寿命なので、その後は金属の「たが」で補強します。
—— 原料も桶も石も、それからこの蔵も。ぜんぶ昔のままなんですね。
加藤 この蔵は風も入りっぱなし。冬は寒いし夏は暑い。そういうことのすべてがこの味噌を作っています。なにかを変えてしまうと味噌も変わってしまうかもしれないので、できないんです。極力昔のままの形と方法を守り続けて、八丁味噌の味を守っています。
味噌をつくる伝統の製法と自然の力。歴史と「人」を守り続けたい。
—— 見学させていただいた蔵もこの社屋も、すべてに伝統を感じさせる風格があって、感嘆しました。
浅井 昔のままにしているだけなんですよ。この応接室も、戦争中に国に金属を供出した名残りで、窓枠のレールなんかもいまだに木のままにしているぐらいです。
—— 創業が1337年(延元2年、南北朝時代)ということですから、創業680年。とても長い歴史をお持ちですね。
浅井 創業680年ではありますが、創業当時は何らかの醸造業はやっていたものの味噌だったかどうかは不確かです。確実に味噌作りをやっていたと言えるのは安土桃山時代です。豊臣秀吉によって島流しのように江戸に追いやられた徳川家康公が、三河を追われて嘆く家臣団を気遣って、故郷の味噌を取り寄せて配ったんですね。「この味噌はどこから来ている」と訊ねた家康に「岡崎の八帖のものです」ということで、八丁味噌と呼ばれるようになったということなのです。
浅井 そうですね。中京地区や三河では、部下を大切にする気質がいまも残っていて、トップが必ずしも偉いというわけではないんです。徳川幕府のピラミッド型の組織のなかで裏切りが少なくなったのは家臣団がとても大切にされたためだと言われています。
—— 江戸の家臣団に送られたということは、昔は地元よりも江戸のほうで消費地される味噌だったのですか。
浅井 つい最近までそうだったんです。このすぐ横を矢作川が流れていますが、上流にダムができる前は流量も多くて、船を土場につけて荷の積み下ろしをしていました。もう土場はなくなりましたが、白壁の倉庫の跡が残っています。そこから江戸へ味噌を運んで、帰りの船に上州の大豆を積んでくる。それがずっと続いて、昭和に入ってもどちらかというと関東や京都の料亭などで消費されてきました。平成になっていわゆる名古屋めしの流行があって、名古屋への出荷も多くなってきたのです。
浅井 もう少しラクにできないの、こんな苦労してやらなくたって味噌はできるんじゃないの、という声もあったみたいですが、ここの蔵はそういうことをしないで伝統を守ってきました。戦争に入る前に二社の八丁味噌が贅沢品とされ、国が発布した物価統制令に同意できず、製造を中止した経緯もあります。
—— そんなことをしたら国からにらまれませんか。
浅井 確かにそうなんですが、その一方で、原料の大豆は供給してくれたので、軍部に卸すものだけは作り続けたんです。この味噌は水分が少なく腐りにくいから、潜水艦に積み込むのに最適だったんですね。
—— そうして守り続けたブランドが今に至っているわけですね。
浅井 私がこの仕事をやっているのは数十年足らずですが、昔からの伝統を守るという一心で仕事を続けています。もっと合理化できないのかとも言われますが、やりません。そういうことを要求されていないんです。合理化して安く分けてくれと言うお客さんはいません。いまもで桶の上に石積みをして、自然に任せて発酵させるのですが、農学部で勉強した人は、そんなのは単なる文化でしょう、発酵の内容を調べて同じことを技術的に促進させればいいじゃないですか、とい言います。その通りかもしれません。でも、自然の力で昔から作っていたんです。科学で同じことができたとしても、それをやりたいわけじゃない。それをやらないのが、お客さんからの要望なんです。いまじゃ新しく木桶を作ってくれる桶屋さんもあまりないんだけれども、去年も三本、今年も三本、注文しました。置くところはもうないんだけれど、作る人がいなくなっては困るので毎年注文するんです。
浅井 たとえば乳酸菌です。除菌のためのアルコールなどを加えなくても、乳酸菌が自ら殺菌してくれます。それから日本の四季。味噌を入れた桶は上に石を積み、2年間寝かせますが、そのあいだ一切かき混ぜません。混ぜなくても、二夏二冬を経過させると全体に均一な味噌ができます。そのメカニズムはよくわかっていませんが、春夏秋冬の気温や湿度の差があるために、中で循環が行われているようなのです。大戦で昔の記録はほとんど失ってしまったんですが、享保6年(1726年)の台帳が残っていまして、よく見るとひとつの桶のなかで塩分を不均一に仕込んでいることがわかります。その濃度の差で循環を起こさせて、最終的に均一に持ってくる。自然の力をそのように生かす工夫が早くからなされていたんだと思います。
—— そうした伝統の製法を守ることができたのはなぜでしょうか。
浅井 江戸時代からカクキュー(合資会社八丁味噌)さんと弊社と、二社だけの小さい組合だったから、きっちり約束事を守って共存できたのだと思います。六尺の木桶で作るのは約束事。味噌の二分の一の石をのせるのも約束事。低塩分、低水分も約束事。二社はライバル同士ではあっても、約束事を守るという基本は絶対に変わらないので、隠すこともなく共存してきました。実は弊社は、明治になって大名貸しが御破算になったり、当主が病気になったりして経営が苦しくなり、カクキューさんに身売りを申し出たこともあったんです。でも、カクキューさんには、ウチは(東海道の)南には行きませんよ、北と南で二社あるのが八丁味噌なのだから、あんたんところはあんたんところでやりなさいと断られた。そんなこともあって何とか淡々とやってきて、今に至っています。
—— 経営の信条とされていることはなんでしょうか。
浅井 従業員を守ること。いまは成果主義などと言われますが、ウチはそういうのはいい。人をかきわけて成果をあげようとするようなことをしない。従業員が継続して勤めてくれることが、品質が高いということの証しです。そのためには、会社は赤字を出さないこと。派手にしないこと。きれいな事務所も自動ドアも要らない。ない知恵を絞りながら、ここらしい商品作りを守っていきたいと思います。
—— 今日は本当に、たいへん貴重なお話をありがとうございました。
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